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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

復帰時の沖縄自治州構想について 中

○比嘉幹郎  本日は、自治研究会の皆さんに報告するように依頼されまして、やってきました。

 ここでお集まりの方々の何名かは存じ上げておりますけれども、殆ど知らない方々ばかりですけど。しかし、皆さんが自治問題を一生懸命研究されていることに対し、心から敬意を表する次第です。頑張ってください。

 このような私を呼んで、30数年前の論文について報告するというのは、学者としては自分が前に書いた、1年前に書いたのでも引用するのは内心忸怩たるものがあります。それは結局、その後学問的にちっとも進歩がないんじゃないかと反省することになりそうだから。でも敢えてやりましょう。

 周知の通り、沖縄は1972年に日本に復帰しました。確か1971年の夏ごろ原稿を頼まれて書き、恐らく12月に掲載されたと思います。その論考を今日皆さんの前で、しかも再考という形で報告したらと言われると、ちょっと気が引けます。正直申し上げて、その後、私の考えにさほど進歩はなく、状況もあまり変わらないんじゃないかと。結論的に申しますと、今でも私は基本的に当時と同じように考えております。

 まず初めに指摘しておきたいことは、政治学者には昔から、日本を含めて世界で二つのタイプというか、考え方があると思います。一方は一つの学派というか、簡単に分けられないんですが、一つのものの考え方として、政治学者は分析批判するだけでいい、あるいは解釈するだけでいいという人々。もう一つは一歩進んで政策を提言すべきであるという人々。つまりそこに政治哲学が入ってくるんですが、その前は非常に客観的というか、分析と批判、そういったのがあるんです。この私が書いた論文を今見てみますと、私は分析も批判も、さらに提言もしていますが、それでいいと思います。

 この論文を皆さん、後でゆっくりお読みになったらいいと思いますけれど、その背景とか、先ほど江上先生が言われたようにいろいろな当時のことを話して、それが参考になればと思います。

 「中央公論」に掲載されましたが、中央公論社とはそれまで全く関係がなかったわけではないのです。1965年5月に「中公新書」として私の本が出版されました。そのころは沖縄関係の本といえば、瀬長亀次郎さんの「民族の悲劇」とか、「沖縄からの報告」などごく僅かで、非常に限られた時代でした。私は1958年からカリフォルニア大学のバークレー校で沖縄の政治について修士論文を書きました。それが、「沖縄―政治と政党」と題した英文の本としてカナダのブリティッシュ・コロンビア大学から出版されました。これは日本の政党史をハーバード大学の博士論文として提出した私の恩師であるロバート・A・スカラピーノ教授のもとで書いたものです。スカラピーノ教授は日本政治の分析を突破口として、中国や、韓国など、アジア各国の研究をなさっていて、私はその先生のもとで日本担当の助手として沖縄を含めいろいろな日本の資料を集めました。韓国は韓国の大学院生が、中国は中国の院生がそれぞれ研究助手としていました。アジア研究から更に発展してソ連とかアフリカとか、国際情勢なども分析、批判していました。
同教授は、沖縄にも第二次世界大戦末期に3カ月ぐらい情報将校として進駐し、沖縄にも多くの知己もおりました。例えば琉球新報の池宮城秀意さんや、沖縄タイムスの上地一史さんらです。

 その教授のすすめで、沖縄の政党と政治について修士論文を書いたわけです。当時はまだアメリカでは、マッカーシー旋風というのが吹いていて、俗に「赤狩り」と言うものですが、日本とか中国専門の人々は殆どみんな共産党だと呼ばれ、つるし上げられていた時代でした。その旋風の余波を受けて、私の論文に関心を持っていた太平洋研究所もカナダに移転したのです。

 それでカナダのバンクーバー市にあるブリティッシュ・コロンビア大学が私の修士論文を英文のまま出版したのです。それが1963年です。それがもう絶版になっておりますけれども、学術的に脚註とか参考文献などが列挙されているので研究者にとっては非常に参考になると思います。

 ちょっと長くなりましたけど、それを中央公論社が、誰かにお願いして日本語に翻訳し、その後私が序章として1963年~4年の政情を日本語で書き加え出版しました。しかし、新書版は大衆向けということで「注」とか「参考文献」などはみんな削除され出版されました。

 そのようなこともあって、中央公論社も沖縄問題に関心を持っていたと思います。もちろん、先ほど言ったような「世界」とかあるいは「現代の目」とか、そういった月刊誌も沖縄に関心を持っておりました。

 ともあれ、ここで私の略歴について少しばかりふれておきます。1950年5月に琉球大学が創設されますけれども、その前に「日本留学」とアメリカ留学というのがありました。本当に「日本留学」と言っていた時代です。それで試験を受けて両方合格したものですから、どこに行くかと迷いましたが、アメリカにはなかなか行けないからアメリカに1年ぐらい行って、その後日本に行こうということになったわけです。それで1950年7月4日すなわち、アメリカ独立記念日に沖縄中部勝連半島のホワイトビーチから米軍輸送艦の底に乗ってサンフランシスコまで行きました。

 ちょうどその同じ船で先ほど話に出た平恒次さんも一緒でした。平さんとは同じ米国の大学に留学したし、沖縄に帰ってきてまた一緒に琉球大学で教えたので、親しい関係でした。ニューメキシコ大学というところに1年一緒でした。彼は2カ年目も奨学金もらって残った非常に優秀な方で、同大在学中にエッセーを書いて表彰されたこともあります。現在でも名桜大学の客員教授として頑張っておられます。

 それで私は米留したんですけれども、何を専攻するかといったら、将来弁護士にでもなろうかなと思っていたのですが、いきなりロースクールに入るわけにもいかず、一応とりあえずそれに近い学問ということで政治学を専攻したわけです。

 働きながら大学に行かなければならなかったので、2年次、3年次はアルバイトの見つけやすいロサンゼルスに移りUCLAに行き、最終年次には米国政府から奨学資金をもらったので、カリフォルニア大学バークレー校へ転学し、そこを卒業しました。

政治学者はあるテーマを決めて、それをできるだけ厳密な方法で研究し、実証できる理論を出す。そうしないと、学術的な論文というのは成り立たないと思います。私の専攻した政治学は、60年代には科学を志向する、いわゆる行動論的政治学で何らかの法則性を見つけなければならないと力説していました。そしてまた政治学でも予測、予見、予知できなければいけないと。政治学は今でもそうだと思いますけれども、何らかのパターンを探求する学問といえるでしょう。

 そのような政治学の流れの影響を受けて、沖縄の政党と政治を書き、沖縄における政党の結成パターンが見出せないかと考えました。その結果、政治権力の座をめぐって少数の人々が集まって政党を結成するというパターンが浮き彫りになってきたわけです。政党というのは、共通の国家目的を実現するために、主義主張を同じくする人々が結成するというか、これは理想的あるいは、理念的かも知らないけども現実的にはそうではないことがわかりました。政党は、やはり政権の維持または奪取を目指すグループであると思いました。

 例えば日本自民党内には多くの派閥があり、ものの見方、考え方はかなり違う。イデオロギーが同じだと言われる共産党内でも、ものの考え方が違う場合も少なくない。共産党は、比較的イデオロギーというのを重視します。しかしほかの例えば沖縄の自民党とか社大党でもそうですし、現実的には政党は政権の維持または奪取を志向するグループだと定義した方がいいでしょう。

 その定義は、沖縄自民党の前身である琉球民主党、あるいは社大党とか、ほかの政党にもあてはまります。例外的と言えば、47年に結成された沖縄人民党(後で復帰後これは共産党になるんですが)かもしれません。そのようなパターンを見いだそうとしたのです。    
そして沖縄の置かれた国際的地位についても何らかのパターンがないかと考えました。やはり国際的に大国の外交の波に揉まれて、沖縄県民の意思とかかかわりなく道具として使われてきたという結論に達しました。国際外交の具として沖縄が翻弄されてきた歴史事例は幾らでもある。例えば、1853-4年にアメリカのペリー提督がやってきて、もし日本が門戸を開放しなければ、つまり鎖国政策を撤廃しなければ沖縄を占領するぞと言わんばかりのことをやったり、あるいは第二次世界大戦で沖縄を犠牲にしてでも日本本土を守るとか、あるいはアメリカが沖縄を返したら、ソ連は北方領土を返してくれるかと聞いたりした事例があります。

 そのパターンについてはいつか書こうと思っている。これは政治文化という形で。政治文化というのはパターン化された政治行動で、その行動の背後にある政治意識には3つの側面がある。一つは、どういった歴史的知識を持っているかという認識的側面。

 認識の問題というのは、先ほど例に挙げたペリー提督の言動、あるいは第二次世界大戦の沖縄の置かれた立場とか、あるいは皆さんご存じないかも知れませんけど、琉球の歴史には沖縄の3分割案というのがあったんですよ。宮古・八重山は中国にやり、沖縄本島は独立させ、奄美大島は日本にやるとかですね。これは明治の伊藤総理のころですが、中国と日本が駆け引きをしようとしたんです。しかし、中国はロシアとの国境問題に忙殺され、沖縄問題は忘れられ、幸いに宮古、八重山は中国の領土にならなくて良かったと思います。

 時間がないというので、先に急ぎますが、政治文化のもう一つの要素は感情、情緒の問題がある。つまり情緒的側面です。そして、最後に価値問題、つまり評価的側面です。この三つから成るんですが、これは世論調査などの資料で究明できると思います。そして結論的に言えば、沖縄の政治文化というのは、「一方的に押しつけられた差別と犠牲に対する反発」、これだと思います。

 差別と犠牲の強要に対する反発。これは例えばライシャワー在日米国大使が、キリスト教的精神をもって沖縄が自由諸国の犠牲になればよいと思えばいいじゃないかとか、あるいは米軍の司令官が嘉手納の爆音は自由のベルと思えばいいじゃないかとか、あるいは日本の高官が基地との共存を叫べば、ぱっと沖縄タイムスや琉球新報などでも大問題になるわけですよね。そういったパターンの探求かということを念頭に置いて、皆さんが私の本や論文などを読んだらいいと思います。


○司会(江上能義)  沖縄自治州構想の背景とか反応とかについてお話をお願いします。平恒次先生はかかわっているんですか。


○比嘉幹郎  つい脱線したようですが、先ほどの質問に戻りますと、平恒次さんは、沖縄の独立論者と思いますが、独立が無理なら、復帰は沖縄と本土の対等合併だという意気込みだったようです。私は、独立論者ではないけれども、そういった気概を持っていなければならないというような、ちょっと生ぬるいかもしれませんけど、そういったものです。
 また、63年から64年にかけて東京オリンピックの前に東大の社会科学研究所の研究員として博士論文の資料を集めていた頃、中野好夫先生が沖縄の資料を集めておられたので、私も呼ばれて勉強会に参加したことがあります。


○司会(江上能義)  沖縄資料センターですね。 


○比嘉幹郎  そうそう。その時沖縄研究をしておられた新崎盛暉さんや新里恵二さんにも会いました。中野先生らが集めた資料は法政大学の研究所に寄贈されたと思います。

 その頃、大江健三郎さんにも紹介されました。彼も沖縄に非常関心があったので、話しているうちに沖縄に一緒に行くことになりました。沖縄は那覇の桜坂で一緒に飲みながらいろいろ話をして、彼は大道の沖縄ホテルにお泊まりになりました。「ある人生」ということで、大江さんを紹介してくれたのは、テレビで大江さんが語った伊江島出身の古堅宗憲さんです。古堅さんは13年ぐらい沖縄に帰っていないと言うので、彼も誘って沖縄に帰ってきました。大江健三郎さんは沖縄訪問直後に沖縄のことを「世界」にお書きになっています。それには私の名前も出ています。その後、琉大の大田昌秀教授と大江さんは「沖縄経験」という冊子をシリーズで出していました。


○司会(江上能義)  復帰前の沖縄関係のシンポジウムなどの記録は残されているんですか。


○比嘉幹郎  本土復帰前の1971年に財団法人の日本地域開発センターの主催でシンポジウムがあって、私の発表が、「望ましい自治像」という題でその年の10月に出された第85号に掲載されています。これと中央公論の論文と殆ど同じ内容だったと思います。

 しかし、特に復帰の時点では復帰運動をどう推し進めるかということが大きな問題だったので、日本政府の実態をあんまり批判することは施政権返還を難しくするのではないかという懸念もありました。そうした懸念はあってもスムーズな返還がまず大事だと思っていました。その反面、この論文にも書いてありますように、復帰の意味するものについても深刻に考えていました。復帰は思想的に見ると、最初はナショナリスト的な動きだったと思います。つまり、沖縄は日本国固有の領土であり、沖縄の住民は日本国民であると主張し日の丸の旗が復帰願望の象徴で、保守・革新問わずみんな日の丸の旗を揚げていました。

 その後、経済面を重視した「軍用地問題」が政治・心理面を強調した「基地問題」に変わり、1965年頃から本土政府の介入もあって、それに反対するような、革新的なものに変容していく。そしてもっと広く言えば、復帰運動というのは、沖縄に対する差別と犠牲の強要の撤廃だというふうなものの考え方に、復帰運動の内容が変わってきたんじゃないかというようなことを書いたことはありますけれども。

 こういったことを背景に、そしてここで皆さんに考えてもらいたいのは、それでは自治とは何かということです。自ら治めることです。ここで強調しておきたいことは、住民自治という民主主義の原点です。

 特にキャラウェイ高等弁務官のころ、自治は権限の委譲であると言ったんです。キャラウェイ高等弁務官が、自治というのは権限の委譲でしかないし、沖縄が独立しなければ自治は神話であると。これが彼の言いたかったことだと私は解釈している。

 独立しなかったら、日本復帰しても、権限の委譲ぐらいしかないよというようなことです。だから、そこらあたりをどう考えるか。先ほどアメリカ留学の話もしたんですけれど、アメリカで教育を受けただけに、この論文の中で戦前から繰り返しみられそうなパターン、法則を認めると同時に、やはりアメリカの連邦政府と州の関係が念頭にありました。自治権はもともと州が持っていて、連邦政府は州が委譲するものしか持ってないと。

 だから、そういった考えでやることだというのが大事ですから、沖縄県というよりは、名は体を表すという意味で言葉自体を州に変えたほうがいいんじゃないかというようなことで、沖縄自治州構想論にしました。

 その後沖縄県の副知事を5年以上務めましたが、その経験を踏まえても、やはり自分が書いたのはそれほど間違ってなかったんじゃないかなと思います。その後余り勉強をしていないので、そう思うのかもしれませんけれど。しかし、現実には行政に携わってみると、例えば予算の編成とか人事とかいろいろ見ても、やはり自分の考えていた通りで日本は中央集権的で自治とはほど遠いものがありました。私は博士論文として、「現代日本政治における官僚の役割」を書きました。政治の舞台には圧力団体とか政党とか官僚など多くのアクターがいますが、政策決定に一番大きな力を持っているのは官僚です。残念ながら、その官僚の役割について、殆ど書かれていない。書かれてないというのは、それだけいろいろなことが秘密にされてなかなか情報も得られず書きにくいということでしょう。

 政策決定に大きな影響力を持っているアクターについてはあまり書かかれていない。近代日本における中央集権的体質を行動論的政治学研究方法で実証するのは大変重要だと思います。私の博士論文で指摘していることですが、例えば藩閥政治から官僚政治に移ったのはいつごろかといいますと、統計的に見ると、1905年ごろです。また、官僚が政策決定にどういう役割を果たしたか、それをケーススタディーとして、例えば戦後日本国憲法の制定過程で詳しく研究してみた。

 しかし、官僚は戦後、占領軍の非軍事化・民主化政策の実施過程で殆ど追放もされなかったんです。軍人や財閥、政治家などはパージされましたが、官僚はごく一部を除き温存されて、いきなり天皇の官吏から全体の奉仕者にされたが、その態度はそう簡単に変わりませんでした。とにかく官僚の役割をいろいろ見たんだけど、依然として中央集権体制でやってきている。

 それで、官僚に対しては非常に懐疑的であった。沖縄が日本に復帰すればどうなるんだろうと。それだけ官僚の役割が分かっているだけに、非常に問題だなと思いました。

 そして、また日本の中央集権体制は依然として残っているし、地方分権というのがいかに貧弱なものであるかというふうに感じたわけです。

 私のまとまらない話はそのくらいにしまして、また江上先生のご質問にもまともに答えずご希望にも添えなかったかもしれませんが、残りの時間は皆さんのご質問を受けて有効に使いましょう。


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